00050 ソーシャル・キャピタル:ケース1
 

 甲府に、とある温泉旅館がある。ここで番頭を務める「喜十さん」は、3人いる番頭の末席である。酒も煙草もやらず、実直だが話しベタ。見るからに、うだつのあがらない男だ。

 ここでは、喜十さんは、すっかり「間抜けな人間」ということになっている。布団の上げ下ろしなど、本来やらなくていい仕事をやらされている。あるときなど、客が不用意に風呂の石畳においたメガネを、喜十さんが踏みつぶしてしまう。

 なんとか善処しようとしていると、女中頭に「阿呆あつかい」されては、叱責される。しかし、喜十さんは抗弁もできず、無念のあまり、涙が出そうになるのをこらえては、ただただ謝る始末だった。

 この温泉旅館には、春秋は客が集まるが、8月と冬は閑散としてしまい、3人いる番頭の中で「何の芸もない」喜十さんは、決まってこの間、いとまをとらされてしまう。つまりは、レイオフ、一時解雇である。

 さて一方、ところかわり、伊豆の温泉旅館に「内田さん」という、皆から信望を集めている、じつに気の利いた粋な番頭さんがいる。身だしなみもよく、周囲からの信頼は揺るぐことがない。

 この番頭の名を「内田喜十」という。

 つまりは、同一人物。

 毎年、甲府の温泉の閑散期、すなわち12月から翌年3月にかけて、そして夏の8月は、あのダメ番頭の「喜十さん」は伊豆へ出向き、そこでは、有能な番頭「内田さん」に変身する。

 内田さんは、伊豆での仕事が終わると熱海に宿泊し、ふたたび甲府へ赴くと、そこで喜十さんへと変貌してしまう。甲府では、酒も煙草もたしなまず、勤勉に尽くしているのに、みなから「阿呆扱い」されている。

 しかし、伊豆の旅館では、酒も飲み、ときに朝帰りさえあるが、気の利いた粋な番頭さんだとみなされている――。

 さて、これは井伏鱒二の『掛け持ち』という作品で、原作は、文庫本で28ページほどの短編です。本作『掛け持ち』は、人間の弱さをからめた人情劇の佳作とのことですが、周囲の環境によって一変する、この「番頭さん」のお話は、「まさに、ソーシャル・キャピタルそのものをとらえた話」だといいます。

 伊豆の「内田さん」を取り巻くソーシャル・キャピタルと、甲府の「喜十さん」のそれとでは、同じ人物でも大きく異なっています。

 内田さんのソーシャル・キャピタルは、彼の能力を十二分に発揮させるものであるのに対して、喜十さんのそれは、彼の力を削(そ)いでしまう(喜十さんの場合、周囲からの信頼や、「お互い様」といった互酬性の規範も乏しく、相互の絆で結ばれているというより、孤立しているようにさえ見えます)。つまり、ソーシャル・キャピタルのよしあしが、人びとの能力を高めるか(発揮できるか)どうかに影響する、というのです。

 以上の事柄については、Frits K. PilとCarrie Leana(2009)による論文(「教師のソーシャル・キャピタルは、生徒の学力を高めることに役立つか」をテーマとしています)があるので、また稿をあらためて、紹介してみます。



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